「白石麻衣の卒業」に対する違和感 ~アイドルと『卒業』の歴史ざっくりまとめ~
はいどうも。「まじめにふまじめ」をモットーにやってます、いたがきです。
昨日(2020年1月7日)、まいやんこと乃木坂46の白石麻衣が3月25日発売の25枚目シングル活動期間を持ってグループを卒業することを発表しました。
ところで、みなさんこの発表に驚きましたか?
おそらく、そこそこ乃木坂を知っている人は年明け早々に発表されたことには驚いたとしても、まいやんが卒業すること自体にさほど驚きはなかったでしょう。少なくともいたがきは「悲しいけれど、まあ、そろそろだよなぁ」というのが正直な感想でした。
それは一体なぜなのか、
そもそもアイドルに「卒業」という言葉が使われるようになったのはなぜなのか、
塚田修一と松田聡平の共著『アイドル論の教科書』を参考にご説明しましょう。*1
あっちゃん
2012年8月23日、東京ドーム・アリーナ席でAKB48前田敦子の卒業セレモニーを観ていた塚田修一は、そのとき感じたことを以下のように記しています。
コンサートも終盤になり、ついに前田敦子のソロ曲など「卒業」関連の流れになると、満員の東京ドームは大歓声に包まれる―。しかしながら、粛々と進められるセレモニーにかすかな違和感を感じてしまったことを告白しなければならない。あるいは、一種の「予定調和」を覚えてしまった、といってもいい。
思い返してみると、前田敦子が卒業を発表して以来、「あっちゃん、辞めないで!」というファンの反応は思いのほか少なかったのではないか。―いや、むしろ、「ついに来るべきものが来た」、あるいは、「おめでとう!」という反応がほとんどだったのではないか。
今回のまいやんの卒業も同じような印象を受けます。もっと言えば歴代の乃木坂を卒業したメンバーの多くにこの「ついに来るべきものが来た」「おめでとう!」という状況が当てはまるでしょう。そして実はこの現象は、「脱退」や「引退」ではなく「卒業」という言葉が用いられていることと大きく関わっているのです。
学校とアイドルと卒業
おニャン子クラブ
まず言っておかないといけないのは、日本の学校という文脈では、「卒業」という言葉には本来の意味である「一つの業を終えること」にとどまらない特別な意味づけがなされてきたということです。「卒業」は、近代日本の学校空間で儀式化され、美化されてきたと有本真紀は述べています*2。つまりは、厳かな雰囲気、すすり泣く父兄、穏やかな陽気、満開の桜といった誰もが容易にイメージできる卒業式の感じです。以上を踏まえて塚田はアイドルに関して、
南沙織から始まるとされる日本の女性アイドル史で、「所属グループから離脱する」という意味合いでの「卒業」という語は2000年代までは、ほとんど使われてこなかった。【中略】その女性アイドルの系脈に、学校という空間で歴史的に醸成されてきた「卒業」という言葉が意図的に持ち込まれたのは、おニャン子クラブにおいてである。
と述べています。おニャン子クラブは『夕やけニャンニャン』という番組内で誕生した秋元康プロデュースのアイドルグループです。ただしここでの「卒業」は、おニャン子クラブが“学校の課外活動”をコンセプトとしていたために思いつかれたものであり、戦略的な意味づけはなかったと塚田は分析しています。
モーニング娘。
「卒業」と「脱退」の意味合いが明確に意識され、この2つの言葉が明確に使い分けられたのが、モーニング娘。においてであると塚田は続けます。男性とスキャンダルを起こし、辞めていく者に対しては「脱退」が、そうでないものには「卒業」が使用されたのです。
特に“学校”という文脈をまとっていないモー娘。では、この「卒業」という語の選択は明らかに戦略的なものである。そして、AKBグループで用いられる「卒業」もこの延長上に位置づけられる(ちなみに、AKBでは、スキャンダルを起こして辞める場合には、「脱退」ではなく、「活動辞退」が用いられる)。すなわち「美化」されたものとして戦略的に「卒業」という語が用いられているのである。
乃木坂もAKBと基本的に同じだと思います。ただ、乃木坂の今までのほぼ全メンバーが「卒業」という形をとっているのは、スキャンダルが原因の活動辞退によって坂道のブランドに傷がつくのを相当警戒しているのかなぁという感じがします。(あくまで予想ですが)
さて、女性アイドルに「卒業」という言葉が使われるようになった経緯はざっとこんな感じですが、これではまだ不十分です。「違和感」や「予定調和」を説明するには『卒業』という言葉が規定する時間的な制約を考える必要があります。
〈線分〉的な時間
『アイドル論の教科書』では「卒業」と「脱退」に関して4種類の時間モデルに分類して解説していますが、ここではAKBグループや坂道グループが当てはまる①の時間モデルのみ紹介します。
まず、「卒業」は、①〈線分〉的な時間として描くことができる。〈線分〉とは、すなわち〈始まり〉と〈終わり〉があるものだが、「卒業」は、「入学」に始まる時間の〈終わり〉である。
そして、この時間モデルでアイドルの「卒業」を考察したときに理解されるのは、制度として「卒業」を掲げた瞬間、アイドル、ファン双方に時限装置が起動する、ということである。〈線分〉の時間であるからには、必ず「卒業」という〈終わり〉が存在しなければならないからである。この〈終わり〉は、大澤真幸が論じているように、「偶有性を必然性へと転換させ、我々の行為や体験に絶対の限界線を引く働きを担っている」。*3
さらにそのことは、ファンによる「卒業」の予期につながるだろう。すなわちAKBファンたちは、前田敦子の「卒業」をすでに予期していたのである。彼女の卒業に際する、ファンからの「あっちゃん、辞めないで」という反応の少なさは、また東京ドームで私が感じてしまった「予定調和」は、この時間モデルによって説明されるべきである。
今回のまいやんの卒業に関しても、年齢、グループ内での立ち位置、ファン数、知名度、どれを見ても文句なしで、あとは本人の決断次第という状態であることに、ファンは前々から気付いていたと思います。結果として「卒業」を前向きにとらえた反応で溢れるのは素敵なことですが、各局の報道番組が当たり前のように「卒業」という言葉を用いるのは何かちょっと不思議な感覚になります。
おわりに
最近までのいたがきは、アイドルって何か面白いなとは思いつつ、いくつもの要素が複雑に絡み合ったアイドルという文化を少しずつ紐解いて理解する手段を持っていなかったために、自分でも何が面白いと思っているのか言語化できずにいました。そんなときに手に取ったのが『アイドル論の教科書』でした。二人のエキスパートが文系と理系それぞれの観点からアイドル論を学問的に、それでいて分かりやすく解説していて、目から鱗の連続でした。
もちろん、「アイドルとは何か?」なんて気にせず応援したい人もいると思います。それでも、アイドルって特殊な魅力があるよなぁとか、アイドル産業って何かおかしいよね、と感じている人には是非読んでほしい一冊です。
と、ここまで感情を出さずに書き連ねてきましたが、本当は僕だって悲しいし寂しいよ!
最後まで読んでくれてありがとうございます。そんなあなたに、
ハフーン *4
では、また明日。stay tuned!