乃木坂46の楽曲を一日一曲語る。22日目『ここじゃないどこか』
はいどうもこんにちは!
「まじめにふまじめ」がモットーのいたがきブログです。
乃木坂46を一日一曲語る。22日目『ここじゃないどこか』をnoteにて公開しました!
いくちゃん!生駒ちゃん!みなみちゃん!生生星!!!
ふわふわした曲調の奥にある、深い歌詞の秘密に迫りました。
ぜひお読みください!
乃木坂46を一日一曲語る 21日目『やさしさなら間に合ってる』
はいどうもこんにちは!
「まじめにふまじめ」がモットーのいたがきブログです。
乃木坂46を一日一曲語る 21日目『やさしさなら間に合ってる』をnoteにて公開しました!
初期を代表する失恋ソング『やさしさなら間に合ってる』。
僕には失恋の経験がないので、どういう切り口で語ればいいかだいぶ悩みました。
最終的には『ありがちな恋愛』の歌詞と絡めつつ、なんとかまとまりました。
ぜひお読みください!
それにしても、かずみんの歌い方のクセがすごい。
乃木坂46を一日一曲語る 20日目『指望遠鏡』
ご報告
はいどうもこんにちは!
「まじめにふまじめ」がモットーのいたがきブログです。
「ご報告」というタイトルに身構えてしまった方がいましたらご安心ください。
僕は卒業しません。
報告というか書き置き
現在、18日目でピタッと止まっている「乃木坂46を一日一曲語る」シリーズですが、noteにてもう一度0日目から始めようと思います。
そして今後はnoteに投稿しようと考えております。
今度こそ毎日投稿を目指しますので、フォローよろしくおねがいします。
本ブログは今後、note記事のPRをメインに運用します。
ただ、どうしても言いたいことがあった時に、ふら~っとこっちのブログに投稿するかもしれません。
↓こーゆーのとか↓
では、noteになっても引き続き、、、stay tuned!
「白石麻衣の卒業」に対する違和感 ~アイドルと『卒業』の歴史ざっくりまとめ~
はいどうも。「まじめにふまじめ」をモットーにやってます、いたがきです。
昨日(2020年1月7日)、まいやんこと乃木坂46の白石麻衣が3月25日発売の25枚目シングル活動期間を持ってグループを卒業することを発表しました。
ところで、みなさんこの発表に驚きましたか?
おそらく、そこそこ乃木坂を知っている人は年明け早々に発表されたことには驚いたとしても、まいやんが卒業すること自体にさほど驚きはなかったでしょう。少なくともいたがきは「悲しいけれど、まあ、そろそろだよなぁ」というのが正直な感想でした。
それは一体なぜなのか、
そもそもアイドルに「卒業」という言葉が使われるようになったのはなぜなのか、
塚田修一と松田聡平の共著『アイドル論の教科書』を参考にご説明しましょう。*1
あっちゃん
2012年8月23日、東京ドーム・アリーナ席でAKB48前田敦子の卒業セレモニーを観ていた塚田修一は、そのとき感じたことを以下のように記しています。
コンサートも終盤になり、ついに前田敦子のソロ曲など「卒業」関連の流れになると、満員の東京ドームは大歓声に包まれる―。しかしながら、粛々と進められるセレモニーにかすかな違和感を感じてしまったことを告白しなければならない。あるいは、一種の「予定調和」を覚えてしまった、といってもいい。
思い返してみると、前田敦子が卒業を発表して以来、「あっちゃん、辞めないで!」というファンの反応は思いのほか少なかったのではないか。―いや、むしろ、「ついに来るべきものが来た」、あるいは、「おめでとう!」という反応がほとんどだったのではないか。
今回のまいやんの卒業も同じような印象を受けます。もっと言えば歴代の乃木坂を卒業したメンバーの多くにこの「ついに来るべきものが来た」「おめでとう!」という状況が当てはまるでしょう。そして実はこの現象は、「脱退」や「引退」ではなく「卒業」という言葉が用いられていることと大きく関わっているのです。
学校とアイドルと卒業
おニャン子クラブ
まず言っておかないといけないのは、日本の学校という文脈では、「卒業」という言葉には本来の意味である「一つの業を終えること」にとどまらない特別な意味づけがなされてきたということです。「卒業」は、近代日本の学校空間で儀式化され、美化されてきたと有本真紀は述べています*2。つまりは、厳かな雰囲気、すすり泣く父兄、穏やかな陽気、満開の桜といった誰もが容易にイメージできる卒業式の感じです。以上を踏まえて塚田はアイドルに関して、
南沙織から始まるとされる日本の女性アイドル史で、「所属グループから離脱する」という意味合いでの「卒業」という語は2000年代までは、ほとんど使われてこなかった。【中略】その女性アイドルの系脈に、学校という空間で歴史的に醸成されてきた「卒業」という言葉が意図的に持ち込まれたのは、おニャン子クラブにおいてである。
と述べています。おニャン子クラブは『夕やけニャンニャン』という番組内で誕生した秋元康プロデュースのアイドルグループです。ただしここでの「卒業」は、おニャン子クラブが“学校の課外活動”をコンセプトとしていたために思いつかれたものであり、戦略的な意味づけはなかったと塚田は分析しています。
モーニング娘。
「卒業」と「脱退」の意味合いが明確に意識され、この2つの言葉が明確に使い分けられたのが、モーニング娘。においてであると塚田は続けます。男性とスキャンダルを起こし、辞めていく者に対しては「脱退」が、そうでないものには「卒業」が使用されたのです。
特に“学校”という文脈をまとっていないモー娘。では、この「卒業」という語の選択は明らかに戦略的なものである。そして、AKBグループで用いられる「卒業」もこの延長上に位置づけられる(ちなみに、AKBでは、スキャンダルを起こして辞める場合には、「脱退」ではなく、「活動辞退」が用いられる)。すなわち「美化」されたものとして戦略的に「卒業」という語が用いられているのである。
乃木坂もAKBと基本的に同じだと思います。ただ、乃木坂の今までのほぼ全メンバーが「卒業」という形をとっているのは、スキャンダルが原因の活動辞退によって坂道のブランドに傷がつくのを相当警戒しているのかなぁという感じがします。(あくまで予想ですが)
さて、女性アイドルに「卒業」という言葉が使われるようになった経緯はざっとこんな感じですが、これではまだ不十分です。「違和感」や「予定調和」を説明するには『卒業』という言葉が規定する時間的な制約を考える必要があります。
〈線分〉的な時間
『アイドル論の教科書』では「卒業」と「脱退」に関して4種類の時間モデルに分類して解説していますが、ここではAKBグループや坂道グループが当てはまる①の時間モデルのみ紹介します。
まず、「卒業」は、①〈線分〉的な時間として描くことができる。〈線分〉とは、すなわち〈始まり〉と〈終わり〉があるものだが、「卒業」は、「入学」に始まる時間の〈終わり〉である。
そして、この時間モデルでアイドルの「卒業」を考察したときに理解されるのは、制度として「卒業」を掲げた瞬間、アイドル、ファン双方に時限装置が起動する、ということである。〈線分〉の時間であるからには、必ず「卒業」という〈終わり〉が存在しなければならないからである。この〈終わり〉は、大澤真幸が論じているように、「偶有性を必然性へと転換させ、我々の行為や体験に絶対の限界線を引く働きを担っている」。*3
さらにそのことは、ファンによる「卒業」の予期につながるだろう。すなわちAKBファンたちは、前田敦子の「卒業」をすでに予期していたのである。彼女の卒業に際する、ファンからの「あっちゃん、辞めないで」という反応の少なさは、また東京ドームで私が感じてしまった「予定調和」は、この時間モデルによって説明されるべきである。
今回のまいやんの卒業に関しても、年齢、グループ内での立ち位置、ファン数、知名度、どれを見ても文句なしで、あとは本人の決断次第という状態であることに、ファンは前々から気付いていたと思います。結果として「卒業」を前向きにとらえた反応で溢れるのは素敵なことですが、各局の報道番組が当たり前のように「卒業」という言葉を用いるのは何かちょっと不思議な感覚になります。
おわりに
最近までのいたがきは、アイドルって何か面白いなとは思いつつ、いくつもの要素が複雑に絡み合ったアイドルという文化を少しずつ紐解いて理解する手段を持っていなかったために、自分でも何が面白いと思っているのか言語化できずにいました。そんなときに手に取ったのが『アイドル論の教科書』でした。二人のエキスパートが文系と理系それぞれの観点からアイドル論を学問的に、それでいて分かりやすく解説していて、目から鱗の連続でした。
もちろん、「アイドルとは何か?」なんて気にせず応援したい人もいると思います。それでも、アイドルって特殊な魅力があるよなぁとか、アイドル産業って何かおかしいよね、と感じている人には是非読んでほしい一冊です。
と、ここまで感情を出さずに書き連ねてきましたが、本当は僕だって悲しいし寂しいよ!
最後まで読んでくれてありがとうございます。そんなあなたに、
ハフーン *4
では、また明日。stay tuned!
『愛がなんだ』は本当の意味での恋愛映画である
はい、どうも。「まじめにふまじめ」をモットーにやってます、いたがきです。
先日、早稲田松竹*1で『さよならくちびる』と『愛がなんだ』を観てきました。どちらも良い作品でした。中でも特に『愛がなんだ』が素晴らしかったので、少しだけこの記事で語らせてください。
基本情報
2019年4月19日にテアトル新宿他全国にて公開された。主演は岸井ゆきの。第31回東京国際映画祭コンペティション部門出品作品。
当初は全国72館で公開されたが、10代後半〜30代の女性やカップルを中心にSNSや口コミで評判となり、独立系の低予算作品としてはあまり例を見ないロングランヒットを記録。2019年6月時点で152館まで上映館が拡大された。
あらすじ
猫背でひょろひょろのマモちゃんに出会い、恋に落ちた。その時から、テルコの世界はマモちゃん一色に染まり始める。会社の電話はとらないのに、マモちゃんからの着信には秒速で対応、呼び出されると残業もせずにさっさと退社。友達の助言も聞き流し、どこにいようと電話一本で駆け付け(あくまでさりげなく)、平日デートに誘われれば余裕で会社をぶっちぎり、クビ寸前。大好きだし、超幸せ。マモちゃん優しいし。だけど。マモちゃんは、テルコのことが好きじゃない・・・。
角田光代のみずみずしくも濃密な片思い小説を、“正解のない恋の形”を模索し続ける恋愛映画の旗手、今泉力哉監督が見事に映画化。
テルコ、
マモちゃん、
テルコの友達の葉子、
葉子を追いかけるナカハラ、
マモちゃんがあこがれるすみれ…
彼らの関係はあまりにもリアルで、
ヒリヒリして、恥ずかしくて、
でも、どうしようもなく好き…
この映画には、
恋のすべてが詰まっています。
『愛がなんだ』の展開(転回)
あらすじを読む限り、この映画の縦軸は「マモちゃんはテルコのことを好きになって、二人は結ばれるのか?」なのかなと思うでしょう。いたがきも本編を観るまでそう思っていました。しかしその予想は見事に裏切られます。本作の展開を端的に表すと「愛の行方→愛とは何か→愛がなんだ」となるでしょう。順を追って説明します。
愛の行方
愛の行方とはつまり先程の「マモちゃんはテルコのことを好きになって、二人は結ばれるのか?」を言い換えたものです。それぞれのキャラクターから別のキャラクターに向けて「好き」とか「友達」みたいな矢印がのびていて、誰かが「告白」したり「交際」したり「フラれる」ことで全体の相関図がどう変化していくかをテーマとしているということです。『愛がなんだ』の相関図はだいたい以下のような感じです。
テルコ(岸井ゆきの)はマモル(成田凌)に超絶片思いしているが、マモルはテルコを都合のいい女としか思っていない。そのマモルはすみれ(江口のりこ)に好意を寄せているが、すみれはマモルをなんとも思っていない。ナカハラ(若葉竜也)はテルコの友達の葉子(深川麻衣)を一途に思っているが、こちらもやはり葉子はナカハラを都合よく利用しているだけである。
巷に流布している「恋愛モノ」の映画やドラマ、漫画などはこの相関図を主軸にしている作品が多いと思います。しかし『愛がなんだ』はそれだけにとどまりません。
愛とは何か
ありがちな「恋愛モノ」だと思って見始めたのに、なかなかその相関図が動かない。それどころか、一見すると誰一人として健全な状態の恋愛をしていないのに、誰もその状況を変えようとしない。するとオーディエンスは、ただただ一方通行の愛が注がれ続ける関係性に違和感を覚え、当然のものとして理解したつもりでいた「愛」そのものを疑い始めるのです。
そんな中、ナカハラがテルコに「葉子さんと会うのをやめる」と伝えます。「葉子さんのことを好きだから今まで尽くしてきたが、もうその一方通行の関係に耐えられない。だけど葉子さんが自分を好きになることはない。それでも自分は葉子さんのことが好きだから、葉子さんと離れる」と言うのです。本作でそれまで貫かれてきた「好きだから尽くす」という行動原理すら否定され、いよいよ観客は「愛とは何か」がわからなくなったことでしょう。少なくともいたがきは「「好き」と「執着」って何が違うんだっけ?自分が「愛」だと思っていたモノって、本当に「愛」なのかな?そもそも自分は何を「愛」だと思っていたんだろう?もうわけわからん!」と、途方に暮れました。相関図における矢印の崩壊です。
しかし一方、劇中でナカハラに「愛ってなんですかね?」と聞かれたテルコは、こう言い放つのです!
愛がなんだ!
愛がなんだ
「愛がなんだ!」と言い放ってからは、もうテルコの独壇場です。相変わらずマモルに執着するテルコですが、映画終盤ではついにマモルのことが「好き」じゃないとまで断言します。そこに「愛」はないし、「好き」でもないのに執着する。その理由はもうテルコにしかわからないし、テルコ本人はそれを考えようとはしていない。オーディエンスは完全に「愛とは何か」の問いでテルコに置いていかれているので、テルコの執着が正しいことなのか判断できるはずもないのです。これぞまさしく今泉力哉監督の描きたかった「正解のない愛の形」ではないでしょうか。
本当の意味での恋愛映画
先述の通り、恋愛モノの映画の多くは恋愛の作用によって相関図が変動するのを楽しむ、いわば「恋愛相関図映画」だと言えます。対して『愛がなんだ』は「恋愛」そのものの意味を模索することをテーマにしています。両者の間に優劣があるとは決して思いません。しかしながら、本当の意味での「恋愛映画」とは『愛がなんだ』のような作品のことだと思います。
おわりに
本当に素晴らしい作品なのでとにかく観てください。観たことある人も観てください。
岸井ゆきのちゃんを初めて見たのはKANA-BOONの『ないものねだり』のMVっていう同志おる?笑
では、また明日。 stay tuned!